新海誠「秒速5センチメートル」

手っ取り早くいやあ恋愛と失恋もの、というか、山崎まさよしの主題歌「One more time, One more chance」の内容をそのまま映像化したような映画です。
全三話構成で、第1話「桜花抄」では主人公の少年(東京在住)の視点で、彼と栃木に転校してしまった恋人が出会う話。第2話「コスモナウト」では種子島に引っ越してしまった少年に片思いする少女の視点からの話。ちなみにこの話では種子島宇宙センターでのロケット発射が象徴的意味合いを持つ。第3話「秒速5センチメートル」では大人になってからの主人公視点で「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」(キャッチコピーのフレーズ)、という話。表題の「秒速5センチメートル」とは第1話の少女の語った、桜の花びらの落ちる速度。
少女マンガ以上に少女マンガ的な主題とストーリー、というよりも、これは男から見ると少女マンガ的で感動するけど、女から見るともはや少女マンガとはいえないものではないかな、と。私はいつのまにか少年マンガは売ってしまって少女マンガばかり(と、諸星、とりみき、吾妻などビッグマイナー作家)に囲まれている生活をしているわけですが、少女マンガって結構たくましいんですよ。こんなに感傷的ではもはやつっぱねられるんではないかと。あ、だから主人公は最後までああだったけどヒロインはああなったのか。いまや男の方がずっと少女マンガ的なのかもしれない。
じゃあつまらねえのか、と聞かれると、すっげえ好きな映画です。
男のオナニー映画だと笑わばわらえ!オナニーに値するものがこの世でどれだけあるというのだ!
オナニーに足るものは美しくあらねばならないのは言うまでもないとして、なにより「お前は俺か」というシンクロを起こさねばならない。
だがこの「お前は俺か」というシンクロは「自分の人生の偽造」である。自分の美しい過去を想起するのではなく、自分の過去がこう美しくあったらという欲望によって自分で「過去」を偽造するのである。その「過去の偽造」を媒介するものこそこのオナニー映画「秒速5センチメートル」なのである。
雪で電車が止まりまくって(言っておくが栃木ではそんなにおこることではない)、遠距離恋愛中の彼女との待ち合わせに大幅に遅れても彼女が待ってくれてて、駅の待合室にふたりっきりで弁当を食うとかありえないと笑わば笑え!とにかくそのシチュエーションによって偽造される自らの過去に酔いしれるのだ俺は。

オナニー映画だと笑う側にまわったものとしても、オナニー映画だと言った時点ですでにそこに美しき過去の偽造の快楽があることを認めていることになる。ならば酔え!酔いしれるのだ!ありえないほど美しい、いや、事実ありえないけど美しい過去に!

しかし、栃木はそんなに東京と遠くねえ!とか、俺の故郷小山市の駅内と両毛線の正確な描写があって感動した、とか、両毛線で電車が止まったときに主人公が「何もない荒野」とか言ったので心内で「そこは畑だ!」と叫んだとか、栃木人にはたまらないネタがつぎこまれてます。(2年 宇賀神鉄太郎)

秒速5センチメートル 通常版 [DVD]

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よしながふみ『フラワー・オブ・ライフ』(新書館)1〜4巻(完結)

本当のことというのは、ナイフのように人を傷つける。いつもそうだというわけじゃないけど、でもやっぱり実際には傷つけることが多いと思う。だから十分慎重に、振り回す(振りかざす?)そのやりかたに気をつけなきゃいけだめ。犬には犬の豚には豚の、そして人には人の信実があって、それはたいてい過酷なものだ、といったのは誰だったか忘れたけど、この言葉は、あたしが今まで生きてきた(短いけれど)その人生の中で、一つの指針となってる。人を傷つけるものなのに、取扱説明書はついていない。百人百様の「本当のこと」を発見したら、それをどうするか、どうつかうか、それともどう気づかぬふりをしつづけるかは、全部その人次第。

よしながふみさんの『フラワー・オブ・ライフ』がついこの間、最終巻の4巻が出て、見事完結した。メインのお話は、白血病になったけど姉からの骨髄移植を受けて回復した花園春太郎と、彼が転校先の学校で出会ったぽっちゃり漫画少年・三国翔太、わが道を行くオタク・真島海の3人が過ごす学園生活。この3人に加えてさらに何人もの個性的な、それでいてどこの高校にも必ずいそうな、そう「高校生」としか形容できない連中がでてきて、物語を盛り上げていく。文化祭の演劇、クリスマス・パーティー、定期試験の勉強会、友達と一緒に行く買い物、徹夜で描き上げた漫画、好きなもの、嫌いなもの、大切にしたいもの、壊してはだめなもの、でもうっかり傷つけて壊してしまったもの。実にいろんなものが、高校1年生の1年間という時間にぎゅっと詰め込まれている。

よしながさんは、読んでいるものが思わずため息をついてしまうほど漫画が上手い。得にあたしが感心するのは、余白=白い画面の存在感。さっきもいったように、物語の中にたくさんのものが詰め込まれているのは確かなんだけど、それでも、ぜんぜん窮屈な感じはしない。そしてまた、いろんな登場人物や、彼と彼女たちが繰り広げる(「繰り広げる」なんておおげさな言い回しじゃちょっと取りこぼしちゃうものも多い)日常だけが、いっぱい描かれているわけじゃなくて、例えば食べ物、例えばふきだしとその中身のセリフもたくさん描かれている。よしながさんが、食べ物を描くのがとても上手なのは、みんなすぐに賛成してくれると思うけど(『西洋洋菓子骨董店』や『愛がなくても喰ってゆけます。』を読んだことがある人ならば、とくに)、この物語の中にも食べ物が、それも極上においしそうな食べ物が、いっぱい出てくる。けど、ごちゃごちゃ感はまったくない。ふきだしのセリフの分量が多いとか思っちゃうこともないこともないけど、そのセリフにすらも丁寧さを感じちゃう。なんでだろう? どうしてか、よしながさんの漫画は視野狭窄にならない。よしながさんは自身の漫画の中に、それはそれはたくさんのものを、もうまるで1巻で春太郎が姉に作ってもらったお弁当のように、きれいに丁寧に、それでいてコンパクトに描いているからだと思う。そう、まるでお弁当。よしながさんの漫画全体がお弁当なら、じゃあ白い画面はご飯!? おいしいご飯は、おいしいお弁当の基本。

さて、物語は転校生・春太郎が転入生としてクラスメイトの自己紹介するとこから始まる。「俺、白血病でした」と春太郎は言っちゃう。言っちゃった。「でも治りました」と続けるけど、クラスメイトはどう接していいのか、とにかく最初のうちはとまどう。それは、担任のシゲさんの言葉を思い出す必要もないぐらいにあたりまえで、だっていきなりそんなシリアスで大変な「本当のこと」を一方的に突きつけられたら、普通の人ならびっくりするでしょう、まず間違いなく。シゲさんに指摘されるまでそれに気がつかないでいた春太郎は、ちょっと子どもだ。でも、春太郎は友達と先生と家族と過ごした1年間を通じて、本当のことの振り回しかたを理解するようになる。それと同時に、本人にとってはこの上なく辛く残酷な本当のことも知ることになるけど。考えてみれば、一緒のことなのかも。本当のことの苛烈さを知ることと、その扱い方を覚えることは。だって、自分が人を傷つけていることに気が付かないままで、本当のことを垂れ流しているならば、それはそもそも本当のことでもなんでもない。本当のことはたいてい人を傷つけるものだし、そのことに気がつかなければ本当のことでもなんでもない。じゃあ、黙っていればいいのか、っていうときっとそうでもないと思う。人に向けないナイフは、ともすれば自分の胸に突き刺さるから。それはとても痛いことだから。大切なのは、使い方を覚えること。いつも成功するとは限らないけど、やってみる価値はある。

春太郎と三国君のオウトツ漫画家志望コンビが、なんだかFとAに見えてきた。それじゃちょっと古いなら日本橋ヨヲコの『G戦場ヘブンズドア』のあの二人かも。最後に、あたしの好きな人である漫画少女・武田さんの言葉をここに。春太郎と三国君が一緒に漫画を描いているときに、喧嘩したのを見て。

「業よ。何かを作る人間の業だわ。あんなに仲が良いのに、それでも歩み寄れない。絶対譲れないものが、それぞれの中にある…。だからあたしは一人で描くの。一人は、孤独だけど、自由だわ」(3年 浅海有理)

フラワー・オブ・ライフ (4) (ウィングス・コミックス)

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村上龍『希望の国のエクソダス』

希望の国エクソダスするのかと思ったら、どうやらそうでもないみたい。

日本人作家でもっともノーベル賞に近いといわれる村上春樹とはすでにトラック3週半ぐらいの差がつけられているような気がする村上〈ドラゴン〉龍先生の『希望の国エクソダス』は、世の中を中学生がさんざん騒がしていたときにぽっと出てきた作品で、はっきり言って質の低下が顕著だったドラゴン先生の作品の中で群を抜いて、出来が悪い。もう、まるで劣等生。でも、ちょっとあいだをあけていざ丁寧に読んでみるとなかなか面白いかもと思えてくるから、それはそれできっとドラゴン先生の魅力なんだとあたしは思うようにしている。

パキスタンでゲリラのようなことをしている日本人中学生がメディアを騒がせたことを発端に、全国の中学生が不登校になる。やがて中学生たちはインターネットを使い独自のネットワークを築き、ビジネスを初める。彼らの新しいメディアは、既存のメディア権力に対抗する力を持つようになり、ついにはマネー・ゲームに打って出る。中学生のリーダー・ポンちゃんは召還された国会で証言をし、大人の誰もが彼らの存在を無視できない。大人たちは自分たちが敷いた(パソコンを打ちながら気がついたけれども、「強いた」でもあるんだね)レールを拒否した中学生が、ビジネスという自分たちと同じ土俵で力をつけてくることにおびえ、彼らの存在を最初から最後まで理解できない。理解していると思っている無理解もある。中学生たちの一グループがプロジェクト・ウバステなんて言い出して、年寄りは山に廃棄しようみたいなことを大真面目に言うあたりは、さすがドラゴン先生としかいえないような、いやドラゴン先生しか大真面目にこんなこといえないよね的な話が目の前に展開していく。もうワンダフォー。

あたしが読んでいて一番強く思ったのは、ああこれはもうすぐそこまで見えているちょっと近い未来でやりとりされるコミュニケーションと、そんな世界で生きる人たちの欲望のあり方をめぐる物語なんだな、ということ。インターネットがここまで普及し、みんながみんな携帯電話をもっている、そんな世界を当たり前のものとして育った子供たちが、どんなコミュニケーションをするのか、そしてもっといえばどんな欲望をもつのか、まだちょっとあたしたちの誰もわからないところがあるんだと思う。それをよくよく考えるのは怖いことかもしれない。でも、ドラゴン先生は果敢にも挑戦する。

ドラゴン先生が懸念しているのは、情報が大量にやり取りされるようになると、人はレスポンスを期待しなくかもしれないというコミュニケーションの逆説的状況で、「自分たちの言動が相手に何らかの影響を与えるという意識が彼らには希薄ではないだろうか」と語り手がいうとき、いつもついてまわるのはそんなコミュニケーション(といえるかどうかよくわかんないけど)の真っ只中にいる少年たちが「つるんとした感じがする」という形容語句。つるんとした中学生は、ギトギトして脂ぎった大人たちがもつような欲望からは無縁だ、とドラゴン先生は考えているみたい。

それが本当かどうかちょっとよくわからないな、というのがあたしの直感。『愛と幻想のファシズム』を書いてから、ドラゴン先生の小説にはやたらと経済関係の話が出てくる。正直、お金の話がぜーんぜんわからないあたしは、この物語にも出てくる経済の話は、ぜんぶすっとばして読んだけれども、お金っていうのがとても不思議な力をもっているというのは理解している、はず。お金があればモノを買うことができるけれど、お金はモノと同じではない。お金はモノと同じででも同じでない。難しい言い方をすれば、貨幣はすべての商品を表象しつつすべての商品から疎外されている、とでもなるかな。これって、人間とそっくりだよね。そして欲望のありたかと。人が何かをほしいって思うとき、つまりモノを欲望するとき、単なるそのモノが手元にあればいいなっていう気持ちだけで、そう思っているわけじゃないような気がする。モノなんだけどそれじゃちょっとモノたりない。これがあたしの考える欲望ってことなんだけど、だとしたら、ドラゴン先生のようにさらっと「欲望がない」なんていうことができるんだろうか。つるんとした中学生には、欲望はないんだろうか。そのくせマネー・ゲームはうまいのに。そのへんがちょっとというか結構気になっている。

がんばれ、ドラゴン先生! (3年 浅海有理)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

森博嗣『すべてがFになる』

森博嗣の小説の処女作です。ジャンルとしてはミステリーで、あらすじは以下のような感じです。
大学の夏休みのゼミ合宿で、とある孤島にキャンプに行くことになったN大学助教犀川創平と女子大生西之園萌絵。しかし、その孤島にあったハイテク研究所で2人は殺人事件に巻き込まれてしまう。殺されたのは天才プログラマ真賀田四季。しかも尋常の殺され方ではない。彼女は両手両足を切断され、ウェディングドレス姿でワゴン型ロボットに乗って犀川と萌絵の前に現れたのだ。しかも状況から考えて完全な密室殺人。犯人が犯したミスは圧倒的に少ないと見られる状況で、犀川と萌絵の推理が始まる。
この作品はこの一作で完結ではなく、このあともシリーズで続いていきます。今のところ刊行予定のものも含めて全10冊という大容量になっています。ミステリ作家というものは基本的に誰でも自分オリジナルの名探偵を作り出すものですが、このシリーズでも犀川創平という名探偵が活躍するわけです。
さてその名探偵ですが、名探偵としては異色の肩書きを持っているといって良いでしょう。N大学工学部助教授という、僕のような人間にとっては完全に「あっち」側の人間です。要するに理系の人間ということですが、本作品自体も理系小説という位置付けになっています。こういうことを書いてしまうと敬遠される方もいらっしゃるかもしれませんが、難しい公式が書いてあったりはしません。解説の瀬名秀明も書いていますが、理系というのはあくまでも名探偵とその助手(萌絵)が理系の人間であるから、彼らの事件へのアプローチの仕方が理系的思考に依存しており、そのような視点から事件を解決していくわけです。ですからトリックや犯人の絞込みなどに小難しい要素が入ることはなく、小説内でも説明がなされているので誰でも楽しめる内容になっていると思います。
しかし、作品内にはロボットやハイテクコンピュータが多数登場するので多少SF的な要素も含んでいます。ですからミステリーとSFが両方好きな人は楽しめると思います。ちなみに僕はホラーが好きです。
                                       (文学部3年 妹)

米澤穂信『さよなら妖精』(創元推理文庫)

米澤穂信さんの代表作『さよなら妖精』は、創元推理文庫で買える。ラノベにはちょっと距離を感じるけど、ミステリ仕立ての青春小説を読んでみたいという人にはうってつけ、と言われていたのであたしも手を伸ばしてみた。この物語は一応、ミステリなんだと思う。「いちおう」といちおうつけてみたのは、あたしは熱心なミステリ読みではないし、ミステリのジャンル論をまくし立てるつもりもないからで、とりあえず保留をつけておけばどうにでもいいなおせると思ったから。創元の「推理文庫」に収録されているけど、なんか一般にミステリという単語がそれとなく意味するようなミステリにはぴたっと当てはまらないような、あそびというかずれのようなものをもっている気がする。ただどんな意見があったところで、あたしは、主人公で語り手の守屋路行とその友人たちが、ひょんなことで出会ったマーヤという一人の外国の少女から出される「問い」を一生懸命考える姿が、まぎれもない「推理」なんだと理解したから、それだけでこの物語をミステリや推理小説(あー、だいたい、あたしはこの二つの違いがよくわからない。そんなものがあるとしてだけど)なんだと理解したの。そうでなきゃ、理解したいの。なんというか、ミステリの文法や約束事からずれているからといってぶーすか文句をいいたがる人に向かって、いちおう「いちおう」なんて言葉をくっつけたのかもしれない。

ちょっと言い訳がましくなったのは、この物語はユーゴスラビアからやってきたマーヤさんが投げかける「哲学的意味はありますか」という問いを中心に進んでいくから。密室で人が死ぬ、なんていう不自然極まりないことが起こっちゃう、ことが自然であるとすら考えられちゃうミステリ独特の空間とは、ちょこっと違う場所で、物語は一人の少年・守屋君の目を通じて語られる。春の長雨が降るある日、高校生・守屋君はクラスメイトの太刀洗万智さんと一緒に帰っていたら、傘ももたずに途方にくれている少女マーヤさんと出会う。マーヤさんはユーゴスラビア出身。でも、日本語は堪能。ちょっと会話の中での単語の選びかたが不自然なところがあるけど、それもまた愛嬌。マーヤさんはある目的をもって日本にやってきた。マーヤさんはちゃんと泊まるところを確認してからやってきたけれど、それでも急な事情で、新しく泊まるところを探さなければならず、困っていた。そんなところに通りかかったのが、守屋君と太刀洗さんだったのだ。守屋君たちのおかげで日本に滞在する間の宿を確保することができたマーヤは、その後、時間が許す限り守屋君たちといっしょに時を過ごし、どんどんと日本を吸収していく。

そんな彼女は何度も何度も「哲学的理由はありますか」と守屋君たちに尋ねる。マーヤさんの言葉の選びかたはちょっと不自然かも。彼女が聞いているのは「哲学的」というのにはちょっと大げさな、日々の生活に息づく素朴な発想(そのくせに、考え出すとやたら面白い)のことだから。雨のなか傘をささずに手にもって小走りに急ぐ男の人のこと。お墓に飾ってあった「めでたい」紅白饅頭のこと。ぼんやりと生きていると自然の中に溶け込んでしまっていて、うっかり見落としてしまうような「日常の不思議」について、マーヤさんは「なぜ?」っていう素朴な言葉を、そう、とても素朴に発することができる。ちょっとというか、かなり新鮮。それは彼女が日本では「外国人」なのかもしんないけど、でも、最後まで読めばきっとわかると思うけど、マーヤさんが哲学的理由を求めるまさにその哲学的理由っていうのが、この物語の中にはちゃんとある。その理由を、あたしはなんとも大切なものとして、物語と一緒に、この本の中にしまいこんでおきたい。彼女が日本語に堪能なユーゴスラビアからの留学生っていうのも、ちょっと考えれば密室殺人並みに不自然なことかもしれない。けど、でも、その不自然さっていうのがあってはじめて哲学的理由を求める彼女のこの姿が意味をまとって見えてくる。うーん、こういう言い方をしちゃうと、『さよなら妖精』がまぎれもないミステリに思えてくるから不思議だ。だからやっぱりそうなのかな。

米澤さんの青春のミステリは、創元推理文庫で買える。(3年 浅海有理)

さよなら妖精 (ミステリ・フロンティア)

さよなら妖精 (ミステリ・フロンティア)

山川直人『コーヒーもう一杯』(3)(エンターブレイン)

山川直人の漫画をよむときには、意識して読むスピードをゆるやかにする必要がある。ていねいにめぐらされたカケアミを、ゆっくりゆっくり吟味する。さながら、喫茶店で一杯の美味しいコーヒーを味わうときのように。ときには、苦い話もある。だがふしぎと暗い気分にはさせられない。あたたかさでもって、あらゆる人間のいとなみをつつみこんでいるからであろう。

コーヒーもう一杯 III (3)
山川 直人
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西川魯介『屈折リーベ』

あたしはメガネをかけていないからか、メガネっ娘にはちょっと憧れていたりする。でも最近のメガネ・ブームはちょっとどころかかなり間違ってると思う。美男美女がメガネをかけただけじゃん、と誰かが突っ込んでいたのを思い出す。メガネをかけた人を好きになると、そこにはきっと好きになったあの人がメガネでなければならない深い理由があるんじゃないかと信じたくなっちゃう瞬間がある。例えば、西川魯介さんの『屈折リーベ』を読んだすぐ後とか。

メガネっ娘の大滝篠奈(おおたき・すずな)先輩に秋保宣利(あきう・のぶとし)少年が、「好きです!」と大胆にも告白するシーンから始まるこのマンガ、ほとんど全編に秋保少年のメガネおよびメガネっ娘に対する熱い想いで満ち溢れていて、ビックリする。だいたい秋保少年が篠奈先輩を好きになった理由も、彼女がメガネっ娘だという理由だし。んでもって、さらにはメガネをかけた女の子にしか興味がないと言い切って、同じクラスの女子・唐臼(からうす)さんが迫ってきても、彼女がメガネっ娘でないという理由だけで相手にしない。秋保少年は筋が通っている。見ていてすがすがしいくらいに、ほんっと微に入り細を穿ったメガネ哲学を持っている。

でも、篠奈先輩はあたりまえのことを悩み出す。メガネをとったあたしを秋保少年は好きでいてくれるだろうかって。なんともメガネっ娘らしい悩みで、あたしも一度くらい、そんなことに頭を悩ましてみたいかも。思春期ってやつです。秋保少年のレトリックはさすがに長けてて、「目は心の窓」を拡張して、メガネも心の窓だっ! と力説しちゃったりする。でもやっぱり、バカなことばっかり言う秋保少年をガンガンどついたりする篠奈先輩もナイーブなところがあって、自分は秋保少年のことが気になるけど、むこうはこっちが思ってるほど自分のことを見てくれていないんじゃないか。むこうが見ているのは私のメガネだけなんじゃないか、なんて思ったりする。そしてとうとう、篠奈先輩はメガネを外す。

もうダメかもしれないでもなんとかしたいと思った秋保少年は、篠奈先輩のもとに走っていく。だって彼は気が付いたから。自分はメガネっ娘が好きなんじゃなくて、篠奈先輩が好きだってことに。好きになった子がたまたまメガネっ娘だっただけだっていうことに。ん? さっきあたしは昨今のメガネ・ブームは好きな人にメガネをかけただけだからけしからん、みたいなことを言っていなかったって? 違うんだなぁ、微妙に。そしてこの微妙さが、とても大切で、とてもデリケートで、だから西川魯介さんは、メガネっ娘の恋を描くのにマンガ1冊を費やしたんだと思う。

つまり、メガネっ娘が好きなんじゃなくて、好きになった人がたまたまメガネをかけていただけなんだけど、でもその人のメガネは本当に似合っていて、それはきっと「メガネっ娘」なんて一般的な言い方で呼んでしまうことがもったいないくらいに素敵だってこと。もちろんメガネをやめてコンタクトにすることもできるけどさ、そして実際にそうしたところでその人の魅力が減るわけでもないんだけどさ、でもきっとその人がかけるメガネはその人と同じようにかっこいいんだと思う。それだけ取り出してみるとどっからみてもただのメガネなんだけどね。誰もかけていないときは単なるレンズとフレームからなる「モノ」が、好きになった人の魅力で、好きな人の一部になって、好きなモノになって、もうそれがないと好きな人が好きな人じゃないみたいに思っちゃうくらいの勢いで迫ってくるのが、メガネっ子(娘も男子も)のメガネなんじゃないのかな。

西川魯介さんは、実に丁寧に、メガネとメガネっ娘(と彼女を恋する少年)の機微を描いていると思う。 (3年 浅海有理)

屈折リーベ (ジェッツコミックス)

屈折リーベ (ジェッツコミックス)