スタンリー・キューブリック『時計仕掛けのオレンジ』
ネタばれ注意!
暴力を巡って過剰に揺れ動く近未来社会の物語。キューブリックの傑作の一つです。
この物語は複数の暴力を振るう者とその被害を受ける者でなりたっていて、その暴力が円環状に巡ってゆく姿が描き出されています。
この映画では、4人の少年たちによる暴力から国家による暴力、そして大衆による暴力に至るまでが全て、非常に乾いたタッチで不快感を増幅させるような露悪性と共に描かれ、さらにキューブリックはそれをカラフルでスタイリッシュな色彩や有名なクラシック音楽によって演出し、私たちの違和感を煽るような形で見せてくれます。
また、私たちが暴力とそのイメージを合致させにくいものを、キューブリックは意識的に配置して見事にミスマッチを見せます。たとえば主人公の少年たち4人組はホームレスを暴行死させる直前にベートーヴェンを語りながらミルクを飲んでいます。彼らの服は真っ白な全身タイツでどこか純潔性を思わせるものです。彼らはその格好で常に暴力を振るいます。
物語が進むと暴力の主体は、国家へ、次いで少年たちの被害者へと変わります。そしてその対象は主人公である少年たちのリーダーです。彼はまるで因果応報を表すかのように苦痛に満ちた拷問を受けます。そしてこの変化に伴い演出も変化していきます。国家による暴力はスラップスティック風に、被害者の復讐はよりリアリティをもった形で、という風に人間劇に即して様々に描かれます。こういった変化をみせることで「暴力」はより多面的かつ本質的なものとして見るものに投げ掛けられていきます。
この流れを見てゆくと、キューブリックは、この映画で描かれた「暴力」の本質を私たち人間自身のなかにあるものとして描き、それにたいして我々が同時に持つ不快感を刺激しようとしているようにも思われます。そういえば、昔この映画を知り合いにお勧めして見せたところただひたすら不愉快だと言ってました。ごめんね。悪かった。次は「博士の異常な愛情」でも見よう。(文学部一年 二郎)
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森見登美彦『太陽の塔』
ああ、恋だなあ。
あたしがあなたを好きになると考えてみよう。そんなことは万に一つも起こらないなんて、即座に否定しないで。だいたい即座に否定しちゃったら、あたしに失礼でしょ。で、あたしはあなたを好きになる。あなたの何が好きだとか、どうやって好きになったかとか、そういう些事はこのさいほっておいていいじゃない。そうと知っていながらズンズンと地雷原を突き進むのが、その人を好きだとか嫌いだとかいうことだと思うし。あたしがあなたを好きになったら、あたしの中であたなのために用意する部分が、どんどんと大きくなっていくのにすぐに気が付く。どうやってもとめられないくらいに、あたしの中のあなたは大きくなっていく。勘違いしないで欲しいのは、あたしはあたしの中にあなたを作るけど、だからといってあなたがまったくのあたしの想像物だとか、そういうことはないってことね。あたしの中に姿をあらわすあなたは、それはもう「あなた」としか呼べないくらいのあなたで、あたしがどんなに想像力を働かせて生み出そうとしてもぜったいに生まれてくることのないような、あなたなのだから。だからあなたはあたしの外にもいる。でも、あたしはあたしの中にもあなたをもっている。「あたしのあなた」とでも言ったらいいのかな。
森見登美彦さんのデビュー作にして日本ファンタジー・ノベル大賞受賞作の『太陽の塔』は、限りなく本人に近い語り手の「私」が、それはもうにょっきりと絶大なる存在感と威厳を持ってそびえたつ太陽の塔のごとき想いの君「水尾さん」を「観察」したけっか、生まれたもの。「私」はしきりに観察という言葉を使い、水尾さんの行動を把握しようとするし、だから物語は水尾さんへの「私」のなかば一方的な想いであふれている。ちょっと気持ちが悪いくらいに。ストーカーってつっこまれてもしょうがないよね。でも、ほんとうに不思議なのは、「私の中の水尾さん」を描いているんだけど、水尾さんはもっとこう、なんていうか、ひょうひょうとして、いつも「私」の中からスルリと抜け出しちゃう。水尾さんが「私」とどんな会話をしたのかなんて、あまりかかれていない。けれど、ちょっとは書かれていて、そのちょっとの部分から水尾さんの姿が、ものすごくよく見えてくる。水尾さんがどんな子なのかよくわかるし、「私」が水尾さんのことをとてもとても好きなことも、またよくわかる。とてもいいお話。
ああ、恋だなあ。(2年 浅海有理)
- 作者: 森見登美彦
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衛藤ヒロユキ『魔方陣グルグル』(エニックス)
勇者ニケと魔法使いククリが魔王ギリを倒すまでを描いたRPG風ギャグ漫画。珠玉の作品である。
ただの村人に過ぎなかった主人公ニケが勇者として使命に目覚めてからというもの、彼の心の成長はなんと著しいのだろう。魔法を失敗ばかりしていたククリがニケを想い続けることで強くなっていくさまは、なんと可憐なのだろう。ルナーとして生を受け、いわゆる箱入り娘だったジュジュがニケとククリを見て旅立ちを決意する心情は、幼くもなんと健気なのであろう。カヤやレイドは、敵キャラのくせになんと魅力があるのであろう。
このように良いところをあげつらっていけばきりのない「グルグル」であるが、ガンガンという特殊な雑誌連載であったため一年に一冊程度しか新刊は出ず、終了するまでに約十年を要した。それにも関わらず、なぜ「グルグル」はこれだけ多くの読者の支持を得たのだろうか。思うに、それは「グルグル」がやはり他の漫画とは一線を画す何かを持っていたからではないだろうか。
「グルグル」は単なるギャグ漫画ではない。あるいは、主人公達がひたすら強くなり、最後のボスを倒すことだけを目的とする真面目さだけが取り得の漫画でもない。「グルグル」は思うにその中間を占める存在なのではないだろうか。
「グルグル」は確かに位置付けとしてはギャグ漫画に属すかもしれない。しかしそのギャグはあくまでも、しっかりとした土台に支えられてのものなのだ。その土台はつまり「グルグル」の「ストーリー」であり「本筋」である。そしてその「ストーリー」をコーティングしているのが「ギャグ」である。たまに読者を爆笑の渦に巻き込むギャグであるが、そんなギャグが随所に盛り込まれていても話が脱線しすぎることはなく、読書は安心して読み進めることができる。いわば、ピンと一本張ったしっかりとしたストーリーを、ギャグが螺旋状に取り巻いている。これが「グルグル」の最大の魅力なのである。
ラストの一番大事な魔王ギリとの闘いのときに、ギリの前で踊るキタキタおやじは一体なんのためにいるのであろう?理由などない。いや、あえて言うならば、「それがグルグルだから」という答えが一番適切であろう。(文学部2年 妹)
竹本健治『フォア・フォーズの素数」(角川文庫)
表題作のほか13編からなる短編集です。
表題作の「フォア・フォーズの素数」は、入院中の少年がフォア・フォーズという4つの4と四則演算などの記号(作中ではΣやlogが使われています)を組み合わせて数字を作るパズルに熱中し、その中で少年がフォア・フォーズでは表現できない自然数があるのではないかと考えその数字を探す、という話がメインになっています。この作品は、あまり見かけない数学小説であり、また普通の少年の心情をよくとらえた青春小説です。30Pほどの小説ですが、ラストではすがすがしいまでの虚無感と同時に、ミステリー的な「やられた」感を感じることができるのではないでしょうか。
また作中の「白の果ての扉」では、カレーの辛さとそれから受ける衝撃を「あるもの」の色の変化に比例させるといった面白いというか、突拍子もない設定を使用し、「空白のかたち」では「博士の愛した数式」と同様に、ある一定時間がたつと物事を忘れてしまうウェルニッケ脳症をモチーフにした作品を書いています。
竹本氏の短編の特徴の一つとしては、読者に日常の中に紛れ込んだ「歪み」を納得させるだけの文章にあります。SFや非日常の世界を描くのにも、やはりその作品世界にあったリアリティというものが存在すると思うのですが、彼の小説には、作品世界に合ったリアリティ以上の設定や状況を作中に持ち出し、かつそれを読者に納得させるだけの力があります。極端に言ってしまえば「そんな訳ないじゃん」を「こういうのもあるかもなぁ」と思わせるような文章です。
この作品はSF、ホラー、一般小説、シリーズ物短編の4つの章から構成されており、上記に記したもの以外にも面白い、あるいはとんでもない作品が含まれていますので、本を読みたいけど長編は読みたくない、というときに最適です。
(経済学部1年 MM)
- 作者: 竹本健治,門坂流
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2005/10/25
- メディア: 文庫
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