村上龍『希望の国のエクソダス』

希望の国エクソダスするのかと思ったら、どうやらそうでもないみたい。

日本人作家でもっともノーベル賞に近いといわれる村上春樹とはすでにトラック3週半ぐらいの差がつけられているような気がする村上〈ドラゴン〉龍先生の『希望の国エクソダス』は、世の中を中学生がさんざん騒がしていたときにぽっと出てきた作品で、はっきり言って質の低下が顕著だったドラゴン先生の作品の中で群を抜いて、出来が悪い。もう、まるで劣等生。でも、ちょっとあいだをあけていざ丁寧に読んでみるとなかなか面白いかもと思えてくるから、それはそれできっとドラゴン先生の魅力なんだとあたしは思うようにしている。

パキスタンでゲリラのようなことをしている日本人中学生がメディアを騒がせたことを発端に、全国の中学生が不登校になる。やがて中学生たちはインターネットを使い独自のネットワークを築き、ビジネスを初める。彼らの新しいメディアは、既存のメディア権力に対抗する力を持つようになり、ついにはマネー・ゲームに打って出る。中学生のリーダー・ポンちゃんは召還された国会で証言をし、大人の誰もが彼らの存在を無視できない。大人たちは自分たちが敷いた(パソコンを打ちながら気がついたけれども、「強いた」でもあるんだね)レールを拒否した中学生が、ビジネスという自分たちと同じ土俵で力をつけてくることにおびえ、彼らの存在を最初から最後まで理解できない。理解していると思っている無理解もある。中学生たちの一グループがプロジェクト・ウバステなんて言い出して、年寄りは山に廃棄しようみたいなことを大真面目に言うあたりは、さすがドラゴン先生としかいえないような、いやドラゴン先生しか大真面目にこんなこといえないよね的な話が目の前に展開していく。もうワンダフォー。

あたしが読んでいて一番強く思ったのは、ああこれはもうすぐそこまで見えているちょっと近い未来でやりとりされるコミュニケーションと、そんな世界で生きる人たちの欲望のあり方をめぐる物語なんだな、ということ。インターネットがここまで普及し、みんながみんな携帯電話をもっている、そんな世界を当たり前のものとして育った子供たちが、どんなコミュニケーションをするのか、そしてもっといえばどんな欲望をもつのか、まだちょっとあたしたちの誰もわからないところがあるんだと思う。それをよくよく考えるのは怖いことかもしれない。でも、ドラゴン先生は果敢にも挑戦する。

ドラゴン先生が懸念しているのは、情報が大量にやり取りされるようになると、人はレスポンスを期待しなくかもしれないというコミュニケーションの逆説的状況で、「自分たちの言動が相手に何らかの影響を与えるという意識が彼らには希薄ではないだろうか」と語り手がいうとき、いつもついてまわるのはそんなコミュニケーション(といえるかどうかよくわかんないけど)の真っ只中にいる少年たちが「つるんとした感じがする」という形容語句。つるんとした中学生は、ギトギトして脂ぎった大人たちがもつような欲望からは無縁だ、とドラゴン先生は考えているみたい。

それが本当かどうかちょっとよくわからないな、というのがあたしの直感。『愛と幻想のファシズム』を書いてから、ドラゴン先生の小説にはやたらと経済関係の話が出てくる。正直、お金の話がぜーんぜんわからないあたしは、この物語にも出てくる経済の話は、ぜんぶすっとばして読んだけれども、お金っていうのがとても不思議な力をもっているというのは理解している、はず。お金があればモノを買うことができるけれど、お金はモノと同じではない。お金はモノと同じででも同じでない。難しい言い方をすれば、貨幣はすべての商品を表象しつつすべての商品から疎外されている、とでもなるかな。これって、人間とそっくりだよね。そして欲望のありたかと。人が何かをほしいって思うとき、つまりモノを欲望するとき、単なるそのモノが手元にあればいいなっていう気持ちだけで、そう思っているわけじゃないような気がする。モノなんだけどそれじゃちょっとモノたりない。これがあたしの考える欲望ってことなんだけど、だとしたら、ドラゴン先生のようにさらっと「欲望がない」なんていうことができるんだろうか。つるんとした中学生には、欲望はないんだろうか。そのくせマネー・ゲームはうまいのに。そのへんがちょっとというか結構気になっている。

がんばれ、ドラゴン先生! (3年 浅海有理)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)