古橋秀行『ある日、爆弾がおちてきて』(電撃文庫)

あたしたちは二種類の時間を生きている。自分で感じる自分の時間と、ほかの人が感じてる(と自分が感じてる)他人の時間の二種類を。自分の時間と他人の時間は、一緒になることも多いのだけれど、きっとでも、一緒にならないことのほうがずっと多い、気がする。小さいころ夢中になって砂場で遊んでいたらいつのまにか夕方になっていた。苦手な科目のテストの時間はまるで拷問のように長い。などなど。時間の流れを決めるのが自分の感じ方だとしたら、自分とほかの人の時間の流れ方が変わっていたって、もっといえばズレていたって、当然っていえば当然だよね。あたしは自分の時間と他人の時間の二種類しかないって言ったけど、そうすると、じゃあ時計で測れる時間ってなにって思う人もいるかもしれない。でも、時計で測れる時間って時計がなきゃどうしようもないわけでしょ。時計が発明される前はなかったわけだし。いやいや時計が発明される前は、太陽の動きで測ることができたっていうかもしれないけれど、それはやっぱり太陽の動きは見る人並みにいい加減だからさ、夏と冬で空にいる時間が変わったり、太陽を見る場所によっても変わったり、だからあんまり考えなくていいと思う。何がいいたいかというと時計で測れる時間ってのは、その時間をどう感じたかっていう自分の、それかどう感じたかっていうほかの人の気持ちに比べたらどうってことないものだってこと。

ずーっと昔から、SFは時間に夢中だった。たぶんSFは時計を信用していない。信用したくない人が、好きなものなんだと思う。自分の時間と他人の時間は、表向きはいちおう同じように流れることになっている。時計の針を基準にして。でも、それが異なっていたら? 逆に進むことができたり、ほかの人より何倍も早く進むことができたり、同じ時間を何度も繰り返せたり、時間を飛び越えることができたりしたときに、どんな面白いことが起こるのだろうと、夢中になって考えてきた。タイム・マシンなんてその一例でしかないの。もっといろいろな面白い発想がそれこそ時を越え場所を越えびゅんびゅんと行きかっているのが、SFっていうジャンル。

電撃文庫で何冊も本を出している古橋秀行さんの『ある日、爆弾がおちてきて』は、男の子と女の子の出会いを描いた短編集。でも単なるボーイ・ミーツ・ガール(ガール・ミーツ・ボーイ)ものと違うのが、出会う二人の時間の流れが、どうにもこうにもぴたっと寄り添うことがないってこと。早かったり、遅かったり、飛んでたり、繰り返したり。もういろいろ。たとえば「恋する死者の夜」は、死んじゃったものは生きていたときの楽しい思い出をゾンビのように毎日繰り返す世界の話。男の子が、死んじゃった好きな子と一緒に、何十回目(何百回目?)の遊園地に行く様子が描かれる。「出席番号〇番」は、毎日、違う人の体に乗り移る出席番号ゼロ番の日渡君/さんと愉快な仲間たちのお話。「むかし、爆弾が落ちてきて」では、時間の流れが極度に遅い世界に取り込まれてしまい、周囲の世界とは隔絶され、オブジェのようにしか見えない少女が出てくる。…ん? あれ? これってどっかで聞いたことがある話ばっかり? 「恋する」っていうのは、ゾンビものっていえばそうだけど、もっと具体的にあたしの頭の中に浮かんできたのは大槻ケンヂさんの『ステーシー』だし、「出席番号〇番」は、もうどっからどうみてもハードSFの大家中の大家であるグレッグ・イーガンさんの「貸金庫」でしょ。それで、「むかし、爆弾がおちてきて」は、これまた日本のクラッシクスとも言える梶尾真治さんの「美亜へ贈る真珠」にしか、どう考えても、見えない。パクリだとか、もっと好意的に言い直して、本歌取りとか、とにかくさ、いろいろんな言い方はあると思うんだけど、あたしはもっと大胆なことを言ってみたい。これら古橋さんのお話は、有名SFがタイム・マシンにでも乗って再びこの時代のこの文庫のこの本の中にやってきたものだよって。SFは不思議な時の流れを描くけど、でも気がついたらSFも不思議な時の流れに巻き込まれちゃう。そう考えると、なんだか面白い。って、これはそもそもあたしが言い出したことじゃなくて、北村薫さんが書いた時にまつわるSFの中に出てきたせりふをいじったものなんだけどね。

そういえばさ、ちょっと前に楳図かずおさんの傑作漫画『漂流教室』がテレビドラマになったとき、『ロング・ラブレター』というタイトルがつけられていた気がする。ドラマの出来はさておいて、このタイトル、ちょっと面白い。うんと遠い未来世界に飛ばされちゃった主人公たちに、現代に残った家族はタイム・カプセルのようにしてメッセージを送るから。長いラブレターっていうのは、だから、ラブレターの文面が長いんじゃなくて、ラブレターが到着するまでに長い、長い気の遠くなるような時間を要するってこと。原作だと、主人公のお母さんが「狂人」一歩手前の「強靭」な精神で息子とその仲間たちの運命を信じて、メッセージを送る。その瞬間、彼女の想いは確実に時を飛び越える。

さて、だいぶ話がとんじゃった。不思議な時の流れを描くSFは、それすらも不思議な時の流れに飲まれちゃって、ちょっと昔の作品が今の作品の中にひょっこり姿を現す。その後に、ちょっと昔のその作品を読んだ人は、「あっ、これっ!」と記憶のタイム・マシンにまた乗ることができるかもしれない。さっきSFは時計を信用していない人が好きなものってあたしはいったけど、時計を信用していない人は何を信じているかというと、自分やほかの人が感じる時の流れ。だから、それを早くしたり、遅くしたりすることも、きっと(いつか)できるんだと信じている。そして、たまにだけど、成功する。ほら、この本のように。(3年 浅海有理)

ある日、爆弾がおちてきて (電撃文庫)

ある日、爆弾がおちてきて (電撃文庫)