『サマータイムマシン・ブルース』

タイム・マシンにはいろんな種類がある。大雑把に分けるとしたら、時を変えることができるものと、変えることができないものの二つ。ここではめんどくさいから、未来のことはおいておく。それじゃあ、過去へ行ってみようと実際に過去へ行ってしまうと、存在していなかったものが急に存在しちゃうことになってだから現在を変えることになる…というのはタイム・パラドックスの「いろは」だね。タイムマシーンに乗って自分が生まれる前に行って、お父さん(となる人)を殺してしまったら、自分はどうなるのかという思考実験が有名な「父殺しのパラドクス」だけど、タイムマシーンはひとたびこの世に生を受けた瞬間から、このパラドックスと正面切ってやりあわなければならない。父殺しのパラドクスをどう殺すか、それが問題。

過去を変えることができないタイム・マシンっていうのは、つまりあたかも昔撮った映画を見ているかのような時間旅行を可能にするタイム・マシンのこと。過去へ行くことはできるけど、過去に干渉したり改変したりすることはできないというやつ。これはお約束としてはOKかもしれないけど、目の肥えた読者を納得させるそれっぽい説明を考え出すのがなかなかちょっと大変かも。だって、誰が考えてもすぐに気がつくと思うんだけど、これってさ、質量保存の法則とかなんかそんな重大な物理学法則を明らかに侵しているでしょう。あの傲岸不遜な猫型ロボット一つとってみても、ヤツがどっから来たのかじっくり考えてみるとわかる。のび太の机の中からっていうのは半分正解で、でも半分間違い。時間軸を未来へと延長した通時間的な流れで見てみれば収支はプラス(現在に出現!)・マイナス(未来から消える!)・ゼロかもしれないけど、時間軸を現在という瞬間でスパッと切り取った共時間的な視点で見てみれば、絶対おかしい。ドラえもんを形作っている質量なりなんなりが、ひゅっとこの世界に登場したわけだから。まるで煙のようにひゅっとね。

ここでもう一つタイム・マシンが必要になってくる。過去にいったら過去が(その延長として現在、そして未来も)変わっちゃう、過去への干渉を許容するタイム・マシンが考えられたのはすごく当然のことだと思う。けど、問題なのは干渉の仕方、改変の程度がほんといろいろあること。ある時間旅行者が観光目的で恐竜がいる大昔に行ったんだけど、そこで一匹の蝶を踏み潰してしまう。時間旅行を堪能して現在に戻ってくるけど、そこは彼の知っている現在ではなかったなんていう有名な短編小説があった。時間のカオス理論とでも呼べるこの話は、ちょっとの間、読者をうならせる説得力はある。どれくらいかっていうとほんの二秒ぐらい。過去の小さな変化が現在の大きな変化になっている、っていうのは確かに「なるほど!」って思うかもしれないけれど、それだってほんの二秒の間だけ。だって、蝶を踏み潰すことも未来を変えられるほどに十分な変化であるのに、タイム・マシンがやってきたことによる大気分子の撹乱や、人が地面に降り立った痕跡、それまでに存在していなかった人が生命活動をすることによるさまざまな影響(呼吸とか分泌とか排泄とか)は「十分な変化」ではない、と誰もいえないってのはおかしいでしょ。ここでもさっきのドラえもん的な問題が反復されてる。ちょっとでも変化を許容するならば、全部のありとあらゆる分子・原子・素粒子、ひょっとしたら形而上学的な変化さえも考慮しなきゃならんっていうのが、論理的な筋道のはず。

過去を変えることができるタイム・マシンが生み出すこの難問にも、いろいろな解決方法が発明されている。これなんかすごい。タイム・マシンで過去へ行くということは、自分の知っている過去(つまりタイムマシーンの存在しなかった過去)ではなくて、自分がタイム・マシンでやってきたことによって変化を被った歴史を持つ過去へ行くことだと考えるの。ただ単に過去へ遡るっていう直線的な動きをするだけではなくて、それと一緒に別の過去へと平行移動もする。だからタイム・マシンに乗れば乗った数だけ過去を渡り歩くことができる。同じ過去を二度体験することはできない。ほかにはこんなのもある。歴史には修復する力があって、たとえ過去が改変されたとしても、どこか別のところでその改変を補うような変化が生じるっていう考え方。この考え方では、ヒトラーの暗殺に成功したとしても、ホロコーストが実際に起こった歴史であるため復元力が働き、別の独裁者が誕生してしまう。これら二つの考え方に共通して見えるのは、人間の力、もっといえば人間の自由意志の力と確定された出来事の集積、つまりは過去の間でなんとかしてバランスを取ろうじゃないかっていう葛藤。あたしがタイム・マシンを好きなのは、まさにこの葛藤がたまらなく好きだから。愛してるって言っちゃってもいいぐらい。

本広克行監督の『サマータイムマシン・ブルース』は、SFなんて研究するわけないと言ってはばからないある大学SF研究会の部室に、突如出現したタイム・マシンをめぐるドタバタを、ドタバタだけど丁寧に組み立てた物語。タイム・マシンを使って彼らがしようとしたのは、壊れてしまった部室のクーラーのリモコンを何とかしようという、宇宙規模で見ても、地球規模で見ても、いやいやどんな規模で見たって、やけにちっこい野望。果たしてこのタイム・マシンが、あたしが分類したどのタイプになるかは見てのお楽しみなんだけど、とにかくあたしは惚れた。やっぱ人間はこうでなくっちゃ。これ以上にないほどまったりした空気を吸う大学生たちは、やっぱりこうでなくっちゃ。どうでもいいことばっかりしているんだけど、時折に織り込まれるどうでもよくないことをなんとか必死に守り通そうとする。もう健気。それはまるでタイム・マシンと歴史の関係みたい。決まっているんだけど、決まっていないことにできる…かもしれないことが決まっている…としてもやっぱり決まってないことにしたい…とこれはどこまでもどこまでも続いていく。タイム・マシンと人間がいる限り。この決められる/決められないは、静かに時に激しく本編のブルースを奏でている。そしてあたしはこのブルースがたまらなく、好き。(4年 浅海有理)