三崎亜記「バスジャック」(『バスジャック』集英社より)

バスジャックにはルールがあるみたい。そしてそのルールにのっとって行われたバスジャックにはロマンがあるみたい。

三崎亜記さんは、考えてみればデビュー作『となり町戦争』からずーっと、「かたち」や「きまり」といったものと、その「なかみ」について取り組んできた。『となり町戦争』の世界は、戦争を公共事業の一環として行う世界。水道や道路やガスの工事のように、新しい公民館を建てたり公園を拓いたりするのと同じように、となり町との間での戦争が始まる(始める)。「戦争始めまーす」みたいなものが町内会の掲示板に出たりするから面白い。たぶんこの世界は、あたしたちが生きている世界をちょっとおかしく(面白くというよりも奇妙に、という意味で「おかしく」)した世界。だって、あたしたちが戦争をするときにも、なんだかんだルールを気にしているから。もちろん、このルールってやつが強いものの理屈だったりすることが多いから、万人万国いついかなるときにでも当てはまるものだなんて口が裂けてもいえないけれど(いやって、口が裂けたらしゃべれないけどさ)、でもさ、いちおう「こいつは殺していいやつ」「これは使っていい武器」とか、そんぐらいのルールはあると思う。あと、赤いバッテンの付いた車は狙っちゃいけないとか。繰り返すけど、このきまりは守られたり守られなかったり、守らないことを理由にして攻撃したり、何が何でも攻撃したいからルールを捻じ曲げちゃったり、いろいろある。要は恣意的ってこと。もっというなら適当ってこと。歴史的っていってもいいかも。でも、きまりがきまりとして認識されているってことは、とても重要。だって、きまりがきまりとして認識されていることは、それから逸脱したものをルール違反だよって言うことができるから。ルール違反するものは、最初っからルールなんて知らないかもしれないし、知っていてあえて無視しているのかもしれないし、理由はいろいろあると思うけれども、でもとにかく「ルールを違反している」ってことで、ある特定のきまりのもとに収めることができちゃう。コミュニケーションの仕方がへたくそだからうまく意思疎通ができていないだけなのに、相手のことを勝手に「ツンデレ」とか呼んじゃうのと、似ている気がする。あ、似ていないかもしれない。よくわかんない。

じゃあ三崎さんが『となり町戦争』でやったのは、あたしたちの世界にある「正しい戦争のきまり」をおちょくってみただけか、っていうと事はそんなに簡単じゃないんじゃないかと、少なくともあたしは思う。「戦争はルールにのっとって行われるゲームだ」とかなんだとか、最近のポモっぽい人はいうかもしれないけれど、ぜんぜーんそんなことはない。だって、ルールにのっとろうがなんだろうが、人を殺して人が殺されるんだよ。ゲームじゃないじゃん。ルールがあろうがなかろうが、人が人を殺しているのは確かでしょ(ルールがあるほうがより「安全に」人を殺せる、なんてーいう理屈もあるけれど、いまはとりあえずおいておきまっす)。絶対でしょ。公共事業の一環として始まったとなり町との戦争と、それに関わるようになった主人公は、その途中で「死」を常に感じ続けていることをあたしたちは忘れてはならないの。戦争っていう人が人とぶっ殺しあうっていうある種の不条理を、なんとか「きまり」や「かたち」であたしたちは日常の延長線上に収めようともするけど、現実問題そんなの無理。あたしたちの世界よりもきまりがきちんとしている『となり町』の世界は、きまりがきちんとしているだけなおさらいっそう、あたしたちの目には奇妙に映る。どっかにありそうだけどどこにもありえない。そんな感じ。『となり町』にどっぷりと浸ることができない人がいるならば、それは三崎さんの「世界設定」とやらが甘いだとか適当だとか思い付きだとか、そんなことに原因があるんじゃなくて、そもそもあたしたちの世界とは絶対に相容れないところを、その本質として持っているからだと思う。絶対そう。

三崎さんの『バスジャック』は短編集。表題作「バスジャック」は、公共事業化したとなり町との戦争よろしく、バスジャックがきれいに様式化された世界で、ロマンあふれるバスジャックを決行しようとするものたちを描いている。ちょっと作品から引っ張ってみる。

バスジャックは通常四人一チームで行われる。「シテ」が先頭で運転手と前ドアを監視し、「ツレ」は最後部の座席で銃を持って車内全体を見渡す。「地謡」は特に場所を定めないが(・・・)起爆装置を持ち、警察の突入や、乗客の反抗の抑止となる。最後の「後見」は、文字通り後見人だ。(・・・)「バスジャック」としての要件を備えているか、手順を踏んで行われたかをチェックする役割も担っている。

何じゃこりゃって思うけれど、何じゃこりゃなのが三崎さんの世界。最初に日常を揺るがす圧倒的な暴力があって、でもその圧倒的な暴力そのものが日常を支える必要な条件となったとき、あたしたちはその圧倒的な暴力すらもなんとか日常の中に収めようと、必死にいろんなきまりを作って、(簡単にいうならば)様式化する。様式っていうのは、これこれの出来事はルールに従って起こっていることですから、日常の延長ですよー、ちゃんと私たちは把握してますよーっていう合図のこと。

あたしは不思議に思うことがある。あたしたちの日常っていつもつねに必ず、日常からあふれてしまう圧倒的な「何か」をどこかに隠し持っていなきゃ日常だって感じられないんじゃないかって。「何もない日常」は「何かある過剰」との対比でしかあたしたちの前に現れないし、でもそんなにしょっちゅう「何かある過剰」があっても困っちゃうから、あたしたちはそれをこっそりひそかにどこか机の下のとか冷蔵庫のチルド室の片隅にとかにちょこんとしまっておく。「何もない日常」と「何かある過剰」の均衡を絶妙な具合で崩しちゃうのが、三崎さん。この「バスジャック」もそう。きまりはきまりでも、やぱり「過剰」だったり「暴力」だったりのきまりなんで、人は死ぬし、バスは爆発するし、そういうものであることは変わりがない。ルールを徹底化させた仮想現実でのバスジャックとか戦争とかとは、似ているように見えるけど、見えるだけで、全然違う。そこが三崎さんの物語の面白いところだと、あたしは思う。

ちなみに、文学の歴史に照らし合わせて考えてみると、この様式化と過剰の間のゆれって古典主義とロマン主義のゆれをなぞっている。だから、バスジャックにロマンを求めようとすることは、あながち間違いじゃないんじゃない?(3年 浅海有理)

バスジャック

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