ジョイス・マンスール『充ち足りた死者たち』(マルドロール)

そもそものはじめ、神様が地中の洞に住み、その双子の兄弟が空に眠っていたころのこと、宇宙はかたちも定まらず虚ろなままで、ただ人類の残存者数人だけが、創造の思考にかきみだされた深みの底の、海を見はるかす「北アフリカ人」ホテルのなかで生きていた。
という刺激的な書き出しではじまる、シュールレアリスムの危険なテクスト。わずかに小説らしき筋があり、またハンス・ベルメールのデッサンを文章にしたような残虐性とエロティシズムが特徴である。文学史的にはこれは「詩的散文」ということになるのだろうが、今日的な観点でみると、中原昌也、猫田道子、バーセルミといった「壊れた文学」の系譜に位置づけてみてもさしつかえはあるまい。さりながら中原昌也のような粗野なベクトルに向かうのではなく、一貫して高雅な雰囲気を色濃くたたえているのだ。このような小説は10ページためしてみて合うか合わぬかだろう。読むが早い、もう少し引用してみよう。
翼のある男は、沈黙の重くのしかかる足音に長いあいだ耳を傾けてから、こう答えた、「いつの日か創造主は世界の顔を一変させるだろう。歴史という訂正だらけの楽譜は消され、法王たちの星をちりばめた建造物は瓦解し、海は逆流して、サヴォイア人たちの愚かな山頂を呑みこむだろう。すべてが消えさり、すべてが変るだろう。そして海洋が平静になるや、いまだ噴煙をあげている幼虫のような思考の山々があらわれ、田園のただなかで火口が欠伸をし、不安の鰻のようにぬめぬめした悪魔たちが闊歩して、海に没した、だが嵐の前には勝ち誇っていた人間どもの頭の波を踏んでゆくだろう。(略)」
書誌的な情報について。薔薇十字社版、白水社版、マルドロール版と二度改訳がおこなわれている。最新の版は書肆マルドロールのサイトから新刊、訳者署名入りで購入できる。