三池崇史監督「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」

映画にリアリズムは存在しない。映画とは演出された画面であり、演出とは嘘である。つまり映画とはいかに嘘をつくかということに腐心する極めて不道徳な行為である。リアリズムの映画などはむしろ嘘をいかに真実らしくするかという、嘘のなかでも最もタチの悪い種類の映画なのである。

ジャンル映画において独創性は存在しない。ジャンル映画における美とは様式美に他ならない。様式とは問いかけを拒否する固定化された形式であり、それは極めて慣習的で独創性とは正反対に位置するものである。時代劇、西部劇、任侠ものなどは独創性のない輩が因習によりかかって作る、創作とはいえないものの類である。日本刀、拳銃、ライフル、ガトリングガン、などはただ作り手と観客のフェチズムの一致を楽しむだけのガジェットにすぎない。

だがもし映画が本来的に持っている反リアリズム性と非独創性を極限までエスカレートしたときなにが生まれるのか。虚構、嘘、捏造、贋作であることを見せびらかし、いや、表面的に見せびらかすだけではなく、映画の根底から表層まで全てを虚構、嘘、捏造、贋作で作り上げ、そしてその後に残るものは何なのか。

それはまさに「映画そのもの」としかいえない「何か」なのである。

葛飾北斎富嶽三十六景を背景にタランティーノが1対3の銃撃戦をぶちかまし、そしてスキヤキにむしゃぶりつくとき、われわれがみるそのスキヤキは再早スキヤキではない。

あのスキヤキこそが映画そのもの、映画の根底にある虚構と嘘と捏造と贋作なのである。

そして最後の対決、その1カット前では煌々と太陽が照りつけていたのにいつのまにか雪がふりつもった銀世界になり、大雪の降りしきる中で日本刀と拳銃による対決が繰り広げられるあの「世界」はどこなのか。

あの世界こそまさに映画世界、虚構と嘘と捏造と贋作によって捏ね上げられた完全なる美の世界なのである。

スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴこそまさに史上最も映画の本質、映画そのもに肉薄し、拳銃と日本刀とガトリング砲でその映画という世界を捏造しそして破壊した究極の映画なのである。

ありえないなどと言うな。ありえないことこそ映画なのだ。

(2年 宇賀神)