古橋秀行『ある日、爆弾がおちてきて』(電撃文庫)

あたしたちは二種類の時間を生きている。自分で感じる自分の時間と、ほかの人が感じてる(と自分が感じてる)他人の時間の二種類を。自分の時間と他人の時間は、一緒になることも多いのだけれど、きっとでも、一緒にならないことのほうがずっと多い、気がする。小さいころ夢中になって砂場で遊んでいたらいつのまにか夕方になっていた。苦手な科目のテストの時間はまるで拷問のように長い。などなど。時間の流れを決めるのが自分の感じ方だとしたら、自分とほかの人の時間の流れ方が変わっていたって、もっといえばズレていたって、当然っていえば当然だよね。あたしは自分の時間と他人の時間の二種類しかないって言ったけど、そうすると、じゃあ時計で測れる時間ってなにって思う人もいるかもしれない。でも、時計で測れる時間って時計がなきゃどうしようもないわけでしょ。時計が発明される前はなかったわけだし。いやいや時計が発明される前は、太陽の動きで測ることができたっていうかもしれないけれど、それはやっぱり太陽の動きは見る人並みにいい加減だからさ、夏と冬で空にいる時間が変わったり、太陽を見る場所によっても変わったり、だからあんまり考えなくていいと思う。何がいいたいかというと時計で測れる時間ってのは、その時間をどう感じたかっていう自分の、それかどう感じたかっていうほかの人の気持ちに比べたらどうってことないものだってこと。

ずーっと昔から、SFは時間に夢中だった。たぶんSFは時計を信用していない。信用したくない人が、好きなものなんだと思う。自分の時間と他人の時間は、表向きはいちおう同じように流れることになっている。時計の針を基準にして。でも、それが異なっていたら? 逆に進むことができたり、ほかの人より何倍も早く進むことができたり、同じ時間を何度も繰り返せたり、時間を飛び越えることができたりしたときに、どんな面白いことが起こるのだろうと、夢中になって考えてきた。タイム・マシンなんてその一例でしかないの。もっといろいろな面白い発想がそれこそ時を越え場所を越えびゅんびゅんと行きかっているのが、SFっていうジャンル。

電撃文庫で何冊も本を出している古橋秀行さんの『ある日、爆弾がおちてきて』は、男の子と女の子の出会いを描いた短編集。でも単なるボーイ・ミーツ・ガール(ガール・ミーツ・ボーイ)ものと違うのが、出会う二人の時間の流れが、どうにもこうにもぴたっと寄り添うことがないってこと。早かったり、遅かったり、飛んでたり、繰り返したり。もういろいろ。たとえば「恋する死者の夜」は、死んじゃったものは生きていたときの楽しい思い出をゾンビのように毎日繰り返す世界の話。男の子が、死んじゃった好きな子と一緒に、何十回目(何百回目?)の遊園地に行く様子が描かれる。「出席番号〇番」は、毎日、違う人の体に乗り移る出席番号ゼロ番の日渡君/さんと愉快な仲間たちのお話。「むかし、爆弾が落ちてきて」では、時間の流れが極度に遅い世界に取り込まれてしまい、周囲の世界とは隔絶され、オブジェのようにしか見えない少女が出てくる。…ん? あれ? これってどっかで聞いたことがある話ばっかり? 「恋する」っていうのは、ゾンビものっていえばそうだけど、もっと具体的にあたしの頭の中に浮かんできたのは大槻ケンヂさんの『ステーシー』だし、「出席番号〇番」は、もうどっからどうみてもハードSFの大家中の大家であるグレッグ・イーガンさんの「貸金庫」でしょ。それで、「むかし、爆弾がおちてきて」は、これまた日本のクラッシクスとも言える梶尾真治さんの「美亜へ贈る真珠」にしか、どう考えても、見えない。パクリだとか、もっと好意的に言い直して、本歌取りとか、とにかくさ、いろいろんな言い方はあると思うんだけど、あたしはもっと大胆なことを言ってみたい。これら古橋さんのお話は、有名SFがタイム・マシンにでも乗って再びこの時代のこの文庫のこの本の中にやってきたものだよって。SFは不思議な時の流れを描くけど、でも気がついたらSFも不思議な時の流れに巻き込まれちゃう。そう考えると、なんだか面白い。って、これはそもそもあたしが言い出したことじゃなくて、北村薫さんが書いた時にまつわるSFの中に出てきたせりふをいじったものなんだけどね。

そういえばさ、ちょっと前に楳図かずおさんの傑作漫画『漂流教室』がテレビドラマになったとき、『ロング・ラブレター』というタイトルがつけられていた気がする。ドラマの出来はさておいて、このタイトル、ちょっと面白い。うんと遠い未来世界に飛ばされちゃった主人公たちに、現代に残った家族はタイム・カプセルのようにしてメッセージを送るから。長いラブレターっていうのは、だから、ラブレターの文面が長いんじゃなくて、ラブレターが到着するまでに長い、長い気の遠くなるような時間を要するってこと。原作だと、主人公のお母さんが「狂人」一歩手前の「強靭」な精神で息子とその仲間たちの運命を信じて、メッセージを送る。その瞬間、彼女の想いは確実に時を飛び越える。

さて、だいぶ話がとんじゃった。不思議な時の流れを描くSFは、それすらも不思議な時の流れに飲まれちゃって、ちょっと昔の作品が今の作品の中にひょっこり姿を現す。その後に、ちょっと昔のその作品を読んだ人は、「あっ、これっ!」と記憶のタイム・マシンにまた乗ることができるかもしれない。さっきSFは時計を信用していない人が好きなものってあたしはいったけど、時計を信用していない人は何を信じているかというと、自分やほかの人が感じる時の流れ。だから、それを早くしたり、遅くしたりすることも、きっと(いつか)できるんだと信じている。そして、たまにだけど、成功する。ほら、この本のように。(3年 浅海有理)

ある日、爆弾がおちてきて (電撃文庫)

ある日、爆弾がおちてきて (電撃文庫)

三崎亜記「バスジャック」(『バスジャック』集英社より)

バスジャックにはルールがあるみたい。そしてそのルールにのっとって行われたバスジャックにはロマンがあるみたい。

三崎亜記さんは、考えてみればデビュー作『となり町戦争』からずーっと、「かたち」や「きまり」といったものと、その「なかみ」について取り組んできた。『となり町戦争』の世界は、戦争を公共事業の一環として行う世界。水道や道路やガスの工事のように、新しい公民館を建てたり公園を拓いたりするのと同じように、となり町との間での戦争が始まる(始める)。「戦争始めまーす」みたいなものが町内会の掲示板に出たりするから面白い。たぶんこの世界は、あたしたちが生きている世界をちょっとおかしく(面白くというよりも奇妙に、という意味で「おかしく」)した世界。だって、あたしたちが戦争をするときにも、なんだかんだルールを気にしているから。もちろん、このルールってやつが強いものの理屈だったりすることが多いから、万人万国いついかなるときにでも当てはまるものだなんて口が裂けてもいえないけれど(いやって、口が裂けたらしゃべれないけどさ)、でもさ、いちおう「こいつは殺していいやつ」「これは使っていい武器」とか、そんぐらいのルールはあると思う。あと、赤いバッテンの付いた車は狙っちゃいけないとか。繰り返すけど、このきまりは守られたり守られなかったり、守らないことを理由にして攻撃したり、何が何でも攻撃したいからルールを捻じ曲げちゃったり、いろいろある。要は恣意的ってこと。もっというなら適当ってこと。歴史的っていってもいいかも。でも、きまりがきまりとして認識されているってことは、とても重要。だって、きまりがきまりとして認識されていることは、それから逸脱したものをルール違反だよって言うことができるから。ルール違反するものは、最初っからルールなんて知らないかもしれないし、知っていてあえて無視しているのかもしれないし、理由はいろいろあると思うけれども、でもとにかく「ルールを違反している」ってことで、ある特定のきまりのもとに収めることができちゃう。コミュニケーションの仕方がへたくそだからうまく意思疎通ができていないだけなのに、相手のことを勝手に「ツンデレ」とか呼んじゃうのと、似ている気がする。あ、似ていないかもしれない。よくわかんない。

じゃあ三崎さんが『となり町戦争』でやったのは、あたしたちの世界にある「正しい戦争のきまり」をおちょくってみただけか、っていうと事はそんなに簡単じゃないんじゃないかと、少なくともあたしは思う。「戦争はルールにのっとって行われるゲームだ」とかなんだとか、最近のポモっぽい人はいうかもしれないけれど、ぜんぜーんそんなことはない。だって、ルールにのっとろうがなんだろうが、人を殺して人が殺されるんだよ。ゲームじゃないじゃん。ルールがあろうがなかろうが、人が人を殺しているのは確かでしょ(ルールがあるほうがより「安全に」人を殺せる、なんてーいう理屈もあるけれど、いまはとりあえずおいておきまっす)。絶対でしょ。公共事業の一環として始まったとなり町との戦争と、それに関わるようになった主人公は、その途中で「死」を常に感じ続けていることをあたしたちは忘れてはならないの。戦争っていう人が人とぶっ殺しあうっていうある種の不条理を、なんとか「きまり」や「かたち」であたしたちは日常の延長線上に収めようともするけど、現実問題そんなの無理。あたしたちの世界よりもきまりがきちんとしている『となり町』の世界は、きまりがきちんとしているだけなおさらいっそう、あたしたちの目には奇妙に映る。どっかにありそうだけどどこにもありえない。そんな感じ。『となり町』にどっぷりと浸ることができない人がいるならば、それは三崎さんの「世界設定」とやらが甘いだとか適当だとか思い付きだとか、そんなことに原因があるんじゃなくて、そもそもあたしたちの世界とは絶対に相容れないところを、その本質として持っているからだと思う。絶対そう。

三崎さんの『バスジャック』は短編集。表題作「バスジャック」は、公共事業化したとなり町との戦争よろしく、バスジャックがきれいに様式化された世界で、ロマンあふれるバスジャックを決行しようとするものたちを描いている。ちょっと作品から引っ張ってみる。

バスジャックは通常四人一チームで行われる。「シテ」が先頭で運転手と前ドアを監視し、「ツレ」は最後部の座席で銃を持って車内全体を見渡す。「地謡」は特に場所を定めないが(・・・)起爆装置を持ち、警察の突入や、乗客の反抗の抑止となる。最後の「後見」は、文字通り後見人だ。(・・・)「バスジャック」としての要件を備えているか、手順を踏んで行われたかをチェックする役割も担っている。

何じゃこりゃって思うけれど、何じゃこりゃなのが三崎さんの世界。最初に日常を揺るがす圧倒的な暴力があって、でもその圧倒的な暴力そのものが日常を支える必要な条件となったとき、あたしたちはその圧倒的な暴力すらもなんとか日常の中に収めようと、必死にいろんなきまりを作って、(簡単にいうならば)様式化する。様式っていうのは、これこれの出来事はルールに従って起こっていることですから、日常の延長ですよー、ちゃんと私たちは把握してますよーっていう合図のこと。

あたしは不思議に思うことがある。あたしたちの日常っていつもつねに必ず、日常からあふれてしまう圧倒的な「何か」をどこかに隠し持っていなきゃ日常だって感じられないんじゃないかって。「何もない日常」は「何かある過剰」との対比でしかあたしたちの前に現れないし、でもそんなにしょっちゅう「何かある過剰」があっても困っちゃうから、あたしたちはそれをこっそりひそかにどこか机の下のとか冷蔵庫のチルド室の片隅にとかにちょこんとしまっておく。「何もない日常」と「何かある過剰」の均衡を絶妙な具合で崩しちゃうのが、三崎さん。この「バスジャック」もそう。きまりはきまりでも、やぱり「過剰」だったり「暴力」だったりのきまりなんで、人は死ぬし、バスは爆発するし、そういうものであることは変わりがない。ルールを徹底化させた仮想現実でのバスジャックとか戦争とかとは、似ているように見えるけど、見えるだけで、全然違う。そこが三崎さんの物語の面白いところだと、あたしは思う。

ちなみに、文学の歴史に照らし合わせて考えてみると、この様式化と過剰の間のゆれって古典主義とロマン主義のゆれをなぞっている。だから、バスジャックにロマンを求めようとすることは、あながち間違いじゃないんじゃない?(3年 浅海有理)

バスジャック

バスジャック

高橋優子『薄緑色幻想』(思潮社)

散文詩集。この本でわたしたちは、物語がはじまる前の、甘い蜜のようなどろどろしたものにみたされた無音の世界を手さぐりで進んでゆくことを強いられる。淡いけれども、色彩は豊かだ。匂いもある。秘密めいた記憶の底に、優しく、ゆるやかに降下していくかのような心地。そして、存在するのはただただ、「あなた」と「私」。これはつまり、夢。夢そのものではないのか。いとおしく、はかないもの。

跋文は矢川澄子。ある本屋でこの本をなにげなく手にとり、その四文字を目撃した瞬間は、啓示のようなつらぬきだった。

本多孝好「眠りのための暖かな場所」(『FINE DAYS』所収)

「爬虫類がどうして卵を温めないか、お前、知ってるか?」

本多さんの小説はいくつも読んだけれど、少なくともあたしが読んだかぎりでは、全部一人称の視点で語られている。たいていは男性が語り手で、たまには女性も語る。ここでちょっと脱線めいた話を。

語りが一人称か三人称かというのはどうでもいいことだ。というのはつい最近聞いたことで、なんでどうでもいいかというと、ちょっと考えてみれば誰にでもすぐわかると思う。だって、どんな種類の語りだって、究極的には一人の語り手が語っていることになることになるんだから。「彼はこうした」「彼女はそうした」と書いてあっても、結局それは「『彼はこうした』と私は語る」「『彼女はそうした』と私は語る」と言いなおせる。だから一人称や三人称といった語り手の「主語の形」よりも、もっとずっと物語りを考える上で大切なのは、その物語が語られている「点」のようなものがどこにあるのかということ。この語りの点に注目していろんな物語を読み直してみると、いくつも面白いことに気が付く。一番面白いのは、この点はあっちこっちしょっちゅう動くこと。いわゆる一人称物語だって、語り手の視点が語りの点でありつづけるなんてことは、けっこうまれだ。逆に、物語の点がいろんな人物の間を動き回りやすい三人称物語の時に、物語の点が、それこそ禁欲的なまでに一人の人物の肩にカメラよろしく留まりつづけることだってある。

んで、本多さんの小説に戻る。本多さんの小説はほとんどが一人称語りで、もっとちゃんというならば、物語の点はずっと語り手の視点と重なっている。語り手の「僕」や「私」から見た世界が、えんえんと語られている。語られている「だけ」といってもいいかもしれない。なんでこんなに語りの点についてあたしがこだわっているかというと、それは間違いなく、本多さんの小説を読んだり考えたりするときに、語り手の点が語り手に厳格なまでに限定されていることが、語られてる物語世界ときれいに溶け合っていることが理由。

本多さんの小説の語り手はみんな、孤独だ。この孤独を担保するのが、さっきから言っている、語り手の肩に固定された物語の点。この孤独は、家族や友達や恋人がいないという意味での孤独ではなくて、そうたとえて言うならば、ワンンルーム・マンションのような孤独。私は私の部屋にはいる。あなたはあなたの部屋にはいる。私の部屋は私の部屋で、あなたの部屋はあなたの部屋で、だから交錯することは決してないし、まして中がどうなっているのなんて決してわかりはしない。哲学の言葉を使うならば、近代人の孤独といってもいいかもしれない。でも、近代人なるひとが生まれた時代に書かれた小説は、もっとごちゃごちゃだった。物語の点なんて適当だったし、誰の考えなのかわからないものがまぜこぜになって語り手の口から勢い良く流れ出てた。本多さんの小説は、もっとずっと、控えめだ。諦めに近い慎み。どうせ人はわかりえない。だって、私たちはそもそも別の部屋に住んでいるんだから、とかなんとか、そんな諦念。

でも、不思議だよね、語り手たちがそんな諦念を抱くようになったのは、彼ら彼女らが人とのコミュニケーションにおいて決定的な出来事を経験したからだっていうのも。つまりあたしが何がいいたいのかというと、もし本当に最初から完全にまったく百パーセント諦めているのならば、その前にあった「挫折したコミュニケーション」なんてそもそも成立しなかったってこと。諦める、というのは一つのプロセスで、諦める前があって、んで、諦めた後があって、だからひょっとしたら諦めた後のその後もあるかもしれない。だから語り手たちの諦めは本当の諦めなんだろうかと、そんな風にあたしは思ってしまう。うん、きっと本当の諦めではない。だから希望はある。

短編集『FINE DAYS』は四つの恋愛を描いた物語からできている。そのうちの一つ「眠りのための暖かな場所」は、妹の死に責任を感じ、他者=社会との距離感をつかめずにいる大学院生の語り手の「私」と、自分と接することで確実に人を不幸な目に合わせてしまうある「事情」を抱えている大学生・結城との出会いが語られる。出会いだけではなく、その前も、その後も。自分に対して、そして社会につまり他者に対して心を閉ざそうとする結城に向かって、「私」はこう言い放つ。「爬虫類がどうして卵を温めないか、お前、知ってるか?」

別々の部屋に住んでいる限り、人は他者のぬくもりを知らない。自らの体温だけでは寒さをしのげないときには、それこそ、死んじゃうんだと思う。でも、少なくとも部屋は隣り合っている。あきらめの前に、挫折しちゃったけど、でもさコミュニケーションはあったんだし、どんなにワンルームに住んでいると思っていても、やっぱり人は一人じゃない。閉じられたものは開かれうる。卵は温められる。(3年 浅海有理)

FINE DAYS (祥伝社文庫)

FINE DAYS (祥伝社文庫)

三池崇史監督「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」

映画にリアリズムは存在しない。映画とは演出された画面であり、演出とは嘘である。つまり映画とはいかに嘘をつくかということに腐心する極めて不道徳な行為である。リアリズムの映画などはむしろ嘘をいかに真実らしくするかという、嘘のなかでも最もタチの悪い種類の映画なのである。

ジャンル映画において独創性は存在しない。ジャンル映画における美とは様式美に他ならない。様式とは問いかけを拒否する固定化された形式であり、それは極めて慣習的で独創性とは正反対に位置するものである。時代劇、西部劇、任侠ものなどは独創性のない輩が因習によりかかって作る、創作とはいえないものの類である。日本刀、拳銃、ライフル、ガトリングガン、などはただ作り手と観客のフェチズムの一致を楽しむだけのガジェットにすぎない。

だがもし映画が本来的に持っている反リアリズム性と非独創性を極限までエスカレートしたときなにが生まれるのか。虚構、嘘、捏造、贋作であることを見せびらかし、いや、表面的に見せびらかすだけではなく、映画の根底から表層まで全てを虚構、嘘、捏造、贋作で作り上げ、そしてその後に残るものは何なのか。

それはまさに「映画そのもの」としかいえない「何か」なのである。

葛飾北斎富嶽三十六景を背景にタランティーノが1対3の銃撃戦をぶちかまし、そしてスキヤキにむしゃぶりつくとき、われわれがみるそのスキヤキは再早スキヤキではない。

あのスキヤキこそが映画そのもの、映画の根底にある虚構と嘘と捏造と贋作なのである。

そして最後の対決、その1カット前では煌々と太陽が照りつけていたのにいつのまにか雪がふりつもった銀世界になり、大雪の降りしきる中で日本刀と拳銃による対決が繰り広げられるあの「世界」はどこなのか。

あの世界こそまさに映画世界、虚構と嘘と捏造と贋作によって捏ね上げられた完全なる美の世界なのである。

スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴこそまさに史上最も映画の本質、映画そのもに肉薄し、拳銃と日本刀とガトリング砲でその映画という世界を捏造しそして破壊した究極の映画なのである。

ありえないなどと言うな。ありえないことこそ映画なのだ。

(2年 宇賀神)

テッド・チャン「商人と錬金術師の扉」

先日の日本SF大会ワールドコンテッド・チャンインタビュー企画で用意した資料。テッド・チャンの最新短編のあらすじ。最後のオチまではばらしていないが、それでも結構物語について説明しているので、実際にに配らなかった。インタビューでは、チャン自ら物語の背景を簡単に説明していた。

*     *     *

テッド・チャン 最新短篇
“The Merchant and the Alchemist’s Gate.”(「商人と錬金術師の扉」)
初出Fantasy and Science Fiction, September 2007.

アッバス(Abbas)は平和の街を意味する町バグダッドに生まれ、織物商を営み社会的な成功者であるにもかかわらず、金では解決できない大きな苦悩を心の中に抱えていた。そんな時、今まで見たことないような素晴らしい品物を取り揃えている商店を見つけ、入ってみる。その店の商人バシャラート(Bashaarat)は錬金術師だと名乗り、自身が作った発明品を見せてくれると言う。興味をかきたてられたアッバスが見たものは、台座にすえつけられた一つの輪。錬金術師は右側から輪に自分の手を通すも、左側から出てくるはずの手は現れない。輪から手を引き抜いた錬金術師を手品師であると認めたアッバスを、次の瞬間にはさらなる驚きが包む。錬金術師が手を抜いてしばらくした後に、輪の左側から、先ほど現れずはずだった錬金術師の手が突然現れたからだ。錬金術師はこう説明する。この輪は右側と左側で時の流れ方が異なっている。右の法は早く、左の方は遅い。だから右から入れたものは、遅れて左から現れるし、左から入れたものは時を遡って右から現れる、と。錬金術師はアッバスに更なる追い討ちをかける。この輪の原理を発展させて、20年後の未来/20年前の過去へと行くことができる「錬金術師の扉」を見せ、今までこの扉を通過した3人が語ってくれた話を、アッバスの前で物語り始めたからだ。

最初の話は、「幸運な縄職人の話」。錬金術師の扉を通って、20年後の「成功している自分」に会うことができたある縄職人は、どのようにして自分が金持ちになったか、その方法をもう一人の自分から聞く。しかし、未来の自分も、それよりさらなる未来の自分から聞いたとおりにやったために成功したのであった。

次の話は「自分自身から盗みを働いた機織の話」。20年後の「金持ちになっている自分」に会いに行ったある機織は、しかし、今とかわらないみすぼらしい生活をしている自分の姿を見つけ、愕然とする。ところが、彼の貧しい生活からはとても想像できないような大金を、家においてある行李の中に発見し、20年後の自分のもとから、思わずその大金を盗み出してしまう。ところが、その大金が原因となって悲劇に見舞われかろうじて救われた彼は改心し、残りの人生を贖罪のために勤労と、倹約、そして貯蓄をすることで過ごすことを決める。そして、20年前の自分がやってくるころには、十分な金が貯まっているのであった。

最後の話は「妻とその恋人の話」。この話の中で、扉をくぐったのは最初の話に出てくる縄職人の妻。夫が、彼よりも若いが彼とそっくりな男と会っているのを目にした妻がこの若い男の正体を知り、心惹かれるものがあった彼女は、彼にもっと近づきたいと思い今度は20年前の世界へ行く。しかし、若い頃の夫が危険に直面していることに気が付き、なんとかして回避するように水面下で働きかける。こうして危機が無事過ぎ去ったあとは、彼女は若い頃の夫(もちろん、彼はその恋人は自分の将来の妻であることは知らない)の恋人になり、しばし後に訪れる別れ、そう若い彼が若い妻と「初めて」知り合うその時まで、性の手ほどきをするのであった。

これらの話を聞いたアッバスは、自分もこの扉を使ってみたいと錬金術師に申し出る。アッバスは、商用で旅に出ていた時に、家に残してきた最愛の妻を事故で失っていた。たとえこの扉を使おうとも、過去に起こったことを、起こらなかったことにすることはできないと錬金術師は言い、そしてアッバスもそれをよく理解しながらも、縄職人とその妻の話が示したわずかな可能性――若い自分が不在であるときに、20年後の自分が何らかの役目を果たすことができるのではないか――にかけ、扉をくぐることを決意する…。

*     *     *

一読してすぐに気がつくのが、未来を知ることと同時にそれを変えることは不可能であるという「あなたの人生の物語」に通じるチャンの時間哲学であろう。またインタビューで語っていたが、時間や場所を固定したタイムマシンという発想は、チャンがSFのタイムマシンものについて感じていた違和感の表明であるようだ。この短編は、それだけで一冊の本となっていて、アマゾンで注文することができる。『SFマガジン』に邦訳がでるかはまだ未定だが、おそらく翻訳されるだろう。

The Merchant and the Alchemist's Gate

The Merchant and the Alchemist's Gate

ジョイス・マンスール『充ち足りた死者たち』(マルドロール)

そもそものはじめ、神様が地中の洞に住み、その双子の兄弟が空に眠っていたころのこと、宇宙はかたちも定まらず虚ろなままで、ただ人類の残存者数人だけが、創造の思考にかきみだされた深みの底の、海を見はるかす「北アフリカ人」ホテルのなかで生きていた。
という刺激的な書き出しではじまる、シュールレアリスムの危険なテクスト。わずかに小説らしき筋があり、またハンス・ベルメールのデッサンを文章にしたような残虐性とエロティシズムが特徴である。文学史的にはこれは「詩的散文」ということになるのだろうが、今日的な観点でみると、中原昌也、猫田道子、バーセルミといった「壊れた文学」の系譜に位置づけてみてもさしつかえはあるまい。さりながら中原昌也のような粗野なベクトルに向かうのではなく、一貫して高雅な雰囲気を色濃くたたえているのだ。このような小説は10ページためしてみて合うか合わぬかだろう。読むが早い、もう少し引用してみよう。
翼のある男は、沈黙の重くのしかかる足音に長いあいだ耳を傾けてから、こう答えた、「いつの日か創造主は世界の顔を一変させるだろう。歴史という訂正だらけの楽譜は消され、法王たちの星をちりばめた建造物は瓦解し、海は逆流して、サヴォイア人たちの愚かな山頂を呑みこむだろう。すべてが消えさり、すべてが変るだろう。そして海洋が平静になるや、いまだ噴煙をあげている幼虫のような思考の山々があらわれ、田園のただなかで火口が欠伸をし、不安の鰻のようにぬめぬめした悪魔たちが闊歩して、海に没した、だが嵐の前には勝ち誇っていた人間どもの頭の波を踏んでゆくだろう。(略)」
書誌的な情報について。薔薇十字社版、白水社版、マルドロール版と二度改訳がおこなわれている。最新の版は書肆マルドロールのサイトから新刊、訳者署名入りで購入できる。